2021
10/22

【40・50代転職体験<寄稿>】早期退職でかなえた夢を捨て、家族のために挑んだ転職(S.Fさん/56歳男性)


体験談 40代 50代 転職

40代・50代の波乱万丈転職体験談を紹介するこの企画。第一回は、いったん夫婦でカフェを開業してマスターを勤めたあと、北の大地の未来を担う教育産業へ身を投じたビジネスマンのマイペース転職物語です。しばし、同世代の人生に思いを寄せていただければ……。

世間知らずで無邪気な僕が入社直後に早期退職を決めた訳

新卒で入社したのは、歴史的贈収賄事件で教科書にも載るほどの情報産業R社で、しかもその事件の渦中の入社だった。

北海道出身で国立H大卒の僕は、入社して2年後にその会社「15年後に辞める」と決め、そのとおりに実行した。

別に待遇に不満だったのでも、会社の風土が合わないと思ったのでもない。むしろR社は世間知らずだった僕に、その後の人生を生き抜くために大切なすべてを与えてくれた素晴らしい会社だった。

そんな会社を40歳で早期退職した理由を説明するには、少し遠回りにお付き合いいただく必要がある。

入社直前、内定者研修代わりに北海道支社でインターンシップのようなことをやらせてもらった。その時制作部のチーフが、とある専門学校のために作った入学生募集の広告を見せてくれた。

そのキャッチコピーには

「とりあえずコンピュータでも、という人は大学へ行ってください」

と、書かれていた。

その広告を見て驚いたのは、メッセージの大胆さにではない。僕はその学校のことを知っていたからだ。

予備校時代、友人に紹介され仲良くなった男がいた。

くだんの専門学校に通っていたその男は、新聞配達をしながら自分で学費を払っていた。朝が辛いからお越しに来てくれと頼まれて、早起きが得意な僕は時々彼をお越しに行っていた。

ある朝彼は、服を着たままベッドに背中を預け座り込んだ格好で眠っていた。起こしてみると、夜も遅くまでバイトをしていたという。思わず「どうしてそんな辛い思いをしてまで学校に行くんだ?」と聞いていた。

彼、答えていわく

「あ、俺コンピュータで生きていくって決めてるから」

と。

「生き方を決める」ということの本当の意味をわかったような気がした。

そしてその時、思い出したことがある。

高校時代、剣道部の練習の帰りに毎日のようにみんなで「鉄舟(てっしゅう)」という喫茶店に寄っていた。そこのマスターを見ていて、僕は「あんな人生がいいな」と思い、周囲にもそのように公言していた。それなのに流されて「とりあえず大学」という進路を選ぼうとしていた自分が少し悔しかった。

時を超えて、彼の通った専門学校が放った「とりあえずコンピュータでも、という人は大学に行ってください」というメッセージは、そして結局「とりあえず大学」に行った自分自身のその後の選択をも後悔のランプで照らし出した。

サークルでのバンド活動を最優先させながら、最低限の出席と成績で年限通りに卒業した僕は、そのサークルの敬愛する先輩が入社した、それまで名前も知らなかった会社からお誘いを受け、その一社しか受験せずに社会人への切符を手に入れたのだった。

夢の扉は思いの外呆気なく開き形となった

もちろんみんなそれぞれに事情がある。彼には彼の。僕には僕の。

そう自分を納得させながら社会人生活をスタートさせた僕の前に、今度は「運命の人」が現れた。

同じ北海道出身で、同期で、同じ課へ配属された女の子。約900人いる同期入社組のなかでの稀有な出会いだ。

高卒でR社に入社してきた彼女に、特別な意図もなく、どうしてこの会社に入ろうと思ったの?と聞いた。世間を騒がすあの事件までは一般的な知名度のほとんどなかった会社である。

高校に来ていた求人票のなかで一番お給料が高かったから、というありきたりな答えに続けて彼女はこう言った。

「子どもの頃からお菓子を作る仕事をしたくて、専門学校へ行く学費が必要だったから」

と。

きっと「コンピュータで生きていく」と言ったあいつと似た何かを感じたんだと思う。自分の過去の選択への後悔に背中を押されたのか、僕はその時、遠い昔にほんのり心に灯った「喫茶店のマスター」という生き方のことを不意に思い出し、「僕の夢と似ているね」と口走っていた。

一度口に出してしまうと、まるでそれは長年の夢であったかのようにはっきりとした形を取り始めた。その急激な変化に呼応するように、彼女の夢も僕のそれと同化を始めた。いつの間にか僕たちは、いつか二人でケーキを売る喫茶店を作ろうと決めて、では、ということで結婚もすることにした。

その頃はバブル景気の真っ只中、会社では新しい働き方の模索が進んで「フレックス定年」という早期退職制度が導入された。40歳までに辞めれば、辞める時点の査定に応じて退職金が割増されるという制度である。

二人で起業を目論んでいる我々としては、これを使わない手はない。

ゴールは僕が40歳になる2006年と決まった。

より良い条件で退職金を得るため、僕は順調に仕事へ邁進。入社から4年、学費が貯まった彼女は僕より一足先に退職して都内の調理系専門学校へ進学、卒業後は良い就職先に恵まれドイツへ修行にも行かせてもらった。帰国したところで彼女は大きな仕事を任せてもらえるようになり、幸せが幸せを呼んだように一人娘を授かった。これは偶然だが、娘が小学校へ上がる年に、開業予定の2006年が重なった。

きっと自分にも「夢」ができて、いろんなことが順調に進んでいるのがうれしかったんだろう。いま思えば無邪気なことだが、僕はことあるごとに40歳で辞めると公言し、あまつさえ社内報のインタビューにもそのように答えていた。

まさかそのせいではないだろうが、たいして出世もしなかった僕は、予定通りすんなりと会社を辞め、大学時代を過ごした札幌で手作りケーキを売るカフェを開業した。

せっかく実現した夢のお店を離れ、かつてお世話になった学校業界に飛び込む

おかげさまで妻の作るケーキは味も良く固定客もついて、カフェ経営は順調なスタートを切ることができた。金が欲しくて始めた事業でもなく、長く続くことがなによりの願いであったから、お客様と喜びを分け合うという意味で、原価率を(だいたい)50%にするという基本ルールを定めて運営した。

意外とかかる固定的な運営費を差し引くと利幅は薄かったが、お客様が長く通い続けてくださることがうれしかった。

お店は順調に10年目を迎えた。

店を開いた時は小学生だった娘も高校を卒業することに年になり、美術の道を選ぶと言った。

進むべき道を選ぶのは我が娘ながら望ましいこと……一方、その大学進学が、10年続いたサスティナブルな生活を揺るがすことになろうとは考えてもみなかった。志望校の説明会へ行ってみると予想外に学費が高く、準備していた学資保険では足りないことがわかったのだ。

だいたいR社時代にあれほど教育機関の広告を作っていながら迂闊なことに、こんな短期間で学費が高騰しているとはまったく気づいていなかった。

そしてその時、あんなに羨ましいと思った「コンピュータで生きていく」という夢や「お菓子作りで生きていく」という「学業を実現するための苦労」のことを、改めて「自分のこととして」考えることとなったのだ。

そういう苦労がもし必要なかったとしたら、彼らはもっと充実した「学び」をそこで得られたのではなかったか。そして苦労を厭わず夢へと向かう彼らを羨ましかった自分こそが、そのような素晴らしい果実を、両親のおかげで得られたのではなかったか。

僕にその環境を提供できる力があるなら、何を犠牲にしても実現してあげるべきではないのか。

娘に金のせいで何かを我慢しない学生時代を送らせてあげる手段が、いまの生活の延長線上にないことは、帳簿なんか精査しなくても直感でわかった。

店を妻に任せて自分は外で働こう。そう決めた。

それでもせっかく二人で夢を重ねて作り上げた店を一人離れることになるのは、少し残念に思うところはある。

そんな思いも含めて妻に相談すると、もともと自分でやりたかった事業だから一人で好きにやれるのはありがたいと、心強くも少しさみしい回答が返ってきた。

さて、50を過ぎての転職活動のスタートだ。

しかし世の中でよく言われるような転職活動のステップを踏むことは、僕の頭のなかには浮かばなかった。いわゆる「転職エージェント」には一社も登録していない。この記事の読者へ参考になる話題は提供できないが……。

ただし、それはきっと、やれることが学校に関することだけだと自分でわかっていたからだろう。学校運営という分野でなら、僕の18年間の経験を必要としてくれるところがどこかにあるはずだ。幸いそんな直感を確かなものにしてくれる頼れる仲間が僕にはたくさんいた。古巣の仲間に相談したら、いくつも思い当たる案件があると言う。

よし、みんなが紹介してくれる学校をまわってみよう。

しかし、どこへ就職するにしても、顧客にしていた業界に当事者として入っていくとなれば、少なくとも会社員時代お世話になったお客様にはご挨拶をしておく必要があるだろう。

そう思って東京へ出向き、特に親しかった方のところに伺ってみた。

すると、なんとその法人から、札幌で大きな案件を抱えているからやってみないか、という申し出がその場であったのだ。

新卒の時に続いて、またしても一社のみの就活で進路が決まってしまった。

もしかしたら自分のなかには「どうしてもやりたいこと」のようなものがないのかもしれない。それが幸いして、生き方を変える必要がある時にはそれなりに道が見つかる、ということなんだろう。

転職した先では、自治体や別の学校法人と協働して新しい学校を作る仕事をさせてもらった。一段落すると別の学校の責任者を拝命し、忙しい日々を送っている。

AIとテクノロジーが先導する大きな社会変化のなかで、教育の刷新に取り組んでいると、自然と外部の魅力的な人材と協働することになる。そのような人たちはほとんど例外なく産業や教育の視点から「北海道の未来」を憂いていて、幼少期から大学まで北海道の教育を受けて育った僕には大いに共感するところがあった。

 

いま、初めて「これをやってみたい」という意思のようなものが自分のなかに生まれたのを感じている。

「北海道の教育を考える」。

まだそんな漠然とした思いだが、今度こそ、自分で紡いだ自分の夢を形にできるかもしれない。

 

いまいる場所でその実現を目指すのか。

それともまた誰かによって新しい場所が示されるのか。

 

いずれにせよ、一度は自分の夢の実現と思っていたあのカフェに、僕はもう戻ることはないだろう。違う夢を追いかける二人のいまの生活も、支え合う感じがとても心地よい。

たどり着いたこの場所で、いまは未来に思いを馳せている。

 

[文]S.F(56歳男性) [編集]キャリア50編集部

 

 

 

 


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